日本ならば当然公的規制が加えられているような分野についても、英国では自主規制という形が取られていることがしばしば見受けられる。
自主規制とは、私的領域にかかる問題は自分達で解決するという意思表示でもある。
制定法を定める場合であっても、それは、権利の私的実現という行為を通じて積み重ねられた無数の判例によって確立された一定の考え方を確認的に規定する場合であるか、あるいは、そうしたコモンローを通じた救済では実現できないような特殊な場合であることが多い。
結果として、英国では、個人が国家に依存し、国家は個人に庇護を与えるという関係は希薄であるし、国家の制定法による規制が広く一般の生活に浸透するということがない分、社会全体のフレキシビリティーも高いということが言えよう。
私的領域の重視と表裏の関係にあるのが、「契約」あるいは「合意」というものに対する厳格な態度であろう。
それは、何もビジネスや社会生活などの私的領域にのみ当てはまるものでもない。
この契約あるいは合意というものの特徴の一対一の関係ということである。
その意味で、契約に対する厳格な態度は「個」に対する厳格な態度に通じている。
「双方向性」という特徴があげられる。
先程紹介した公共サービス合意などはその一つの良い例であり、英国大蔵省が各省に対して予算を配分する代わりに、各省は大蔵省に対して達成すべき政策課題を約束する。
あるいは、マニフェストと呼ばれる各政党の選挙公約も「政党と国民の間の契約」であると言われるが、これも、選挙民が投票する代わりに、政党は掲げた政策の実行を約束する、という双方向の関係である。
日本人にはこの感覚が欠如しているのかもしれない。
日本と英国両方でもう三10年以上会社を経営している日本人の友人は、日英の契約に対する考え方の違いについて、こんな話をしてくれた。
日本人のお客さんは、「(契約書について)形式的なものだから」と言って、ひどい時には、仕事が全て終わってから契約書にサインをしてくる、などということがざらにあるが、そういうことは、英国人相手では、滅多にないという。
私が、この双方向的感覚の欠如を強く実感したのは、日本から調査にくる人のために英国の役所との面会をセッティングした時のことである。
日本側は、一通り質問を終えて知りたかったことが分かると、やれやれという雰囲気で帰る準備を始める。
ところが、それまで質問に答えていた英国側の人が、おもむろに「ところで日本では、その問題についてはどんな検討がこれまでされてきたのですか」といった質問を始めたりする。
こうした経験が二、三度続いたであろうか。
日本側の目的は、質問をして調査をするという一方通行なのだが、英国側は、質問に答えて教えてあげるということに加えて、自分達も質問をするという双方向なのである。
ところで、行政改革のための一つの手法として、「民間委託」というものがあるが、これももともとは、英国などアングロサクソンの国で盛んになったものである。
英国における「民間委託」の現状、その成功の秘訣などについて、英国人の有識者数人に質問をしてみると、成功の秘訣は「契約の発想」だと言う。
いずれにせよ、大切なことは、このような契約的発想が、末端まで深く浸透していることである。
英国大蔵省で働いてみて最も驚いたことは(恐らく役所に限らないのであるが)、個々の職員の役割、仕事がこの契約的発想で基本的に構築されていることであった。
例えば、新しい課に移る、あるいは新たなプロジェクトに参加する、といった場合に大前提となるのは、上司と部下の間で交わされるジョブ・ディスクリプションと呼ばれる合意で、そこでは、個々人が何を、いつまでに、何の目的で、どの程度詳細に行う必要があるのか、それに対しては、どのようなサポートや見返りが期待できるのかなどが取り決められる。
基本的に個々人は、そのジョブ・ディスクリプションに基づいて仕事を行い、それによって能力や成果を判断される。
したがって、英国では、日本のように、各レベルの人々が順々に決裁書にハンコを押して回るという、多数が参加して責任を分担しあう意思決定システムはない。
例えば、「ある商品の販売方法や品質によって不利益を受けた消費者」というような一つの大きなグループを代表して、そのグループに属する1人ないしは複数人が全グループを代表するとして名乗り出て訴訟を提起するものである。
もちろん、相対的な問題であり、英国でも、全ての契約が、個々具体的な場面に応じて一対一で行われるわけではない。
住宅契約や各種のレンタル契約などには雛形を使うのが通常であることも付け加えておきたい。
先ほど、契約あるいは合意の特徴として「個」に対する厳格な態度を挙げたが、私が2年間を通じてなかなか脱却できなかった意識の一つは、「財務省の○○」という組織に対する帰属意識であった。
それは、様々な場面で、個人としての自分で勝負するのではなく、組織の構成員としての自分で渡り合うという意識といってもよい。
考えてみれば、これも気づいた時には、既に習慣として身についていた意識である。
ところが、英国大蔵省の同僚や他の知り合いにとって、「財務省」という私の帰属先は一つの情報に過ぎず、全てではない。
特に、英国の地元のパブなどで時々知り合うことがあるような人達に「日本の財務省」などといったところで、全く理解されない。
問題なのは、やはり個人なのである。
例えば、名刺と一肩書きに対する英国人の感覚は、英国の個人主義を知る上で参考になる。
英国大蔵省で働き始めて数日後、名刺を作ろうと思い、同僚数人にどんな名刺を使っているか尋ねてみたのだが、結構多くの人が名刺を持っていないこと、名刺を使っている人でも、肩書きを入れていない人がいたりすることを知って驚いた。
それでも、自分はやはり名刺は持ちたいと思って、「どんな肩書きを入れたらいいか」と同クラスの人達に尋ねてみると、それぞれが思い思いの肩書きを使っているという。
私にも、「自分の好みを使えば」と言うのである。
要するに、所属とか肩書きとかというものに、あまり拘らないということのようである。
もちろん、個人主義は、何も英国に限ったことではなく、欧米世界に共通するものとしての個人主義については、多くの研究がなされてきた。
ただ、これまで紹介してきたように、個人と個人の契約、権利の私的実現を非常に大切にする英国では、個人主義がいい意味で徹底している。
知り合いの英国人女性の話であるが、英国の場合、総じて、生まれた時から子供を自立させるよう意識して育てるという。
例えば、幼稚園生や小学生は、夕食の後は、すぐ寝かせてしまって、後は、大人は大人だけの時間を大切にする。
あるいは、夕食時のレストランに小学生の子供などは連れていかない。
だから、ベビーシッターの需要が英国では非常に高い。
確かに、英国人家庭にパーティーなどに呼ばれても、子供達が部屋から出てきて加わるなどということは殆どない。
生活が子供中心に動くのではなく、子供には子供の世界があり、大人の世界には踏み込めないのだということを教え込むことで、逆説的ではあるが、小さい時から個人としての自立がはかられるのだと言う。
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